朝雨女の腕まくり

のんびりアラフィフシングルマザー。仕事のことや身の回りのいろんな話。時に真実・時にフィクション。

ライムグリーンのストール

母の日にかこつけて、ストールを贈ろうと思い立ったのが何故なのかはわからない。

仕事帰りの乗り換えターミナルで、隅の方にディズプレイされたカラフルなストールに目が止まった訳も。


いくつか吊るされたふわふわとした素材の布帛の中から、明るめのライムグリーンと、大人しめのグレーと最後まで迷ったが、レジに向かう時にはライムグリーンを手にしていた。


母のワードローブは地味だ。おおよそ色という色を排除した服が殆んどだ。

家の中は、掃除が苦手な母らしくありとあらゆる雑貨やパッケージ、ごちゃごちゃのテイストの古いインテリア用品で埋め尽くされてるというのに。


家に帰って、ただいまの声も早々に、はい、と声をかけて母に袋ごと手渡した。


母はテレビの前に置かれた座椅子に座ってバラエティー番組を見ていたが、少し驚いたのか、黙って受け取った。

そのまま無言で見つめているわたしの目の前で、母は促されるように不器用にラッピングを解いた。箱を開けると鮮やかなライムグリーンが眩しい。


私は母が余計なことを言う前に「母の日だから」とだけ言うと、居間を出て二階の自室に上がった。


だいたい母はいつも一言多いのだ。おそらくあのまま側にいたら、母は派手すぎてこんなものどこにもしていけない、だの、お給料を無駄なものに使うな、だの言ってくるのだろうから。


そういえば、いつの頃からだろう。次第に私が母親と会話らしい会話をしなくなったのは。


父親が亡くなって、しばらくは母娘2人の密な暮らしがあった。

父が亡くなることは、一年以上前から医師に告げられていたことで、当初の余命は半年だったが、亡くなったのは一年半後のことだった。次第に病状が悪化するにつれて、父はますますわがままになり、どこにもやり場のない怒りを母にぶつけた。


母は何も言わずに耐えていた。


父には言えないストレスが、娘の私に向かったのかもしれない。母はまるで幼い娘にするように、事あるごとに私生活に干渉してくるようになった。


当時付き合っていた人と別れたのも、あれこれ口を出す母親に辟易として、面倒になったことも一因だったと思う。


父が亡くなってしばらくは、それが続いた。父の一周忌までは色々と手伝うこともあったし、親戚もそれなりに顔を見せることもあったのだが、今はよっぽどのことがない限り、母の元へ連絡があるようすもないようだ。人がくれば母とは会話をした。

もてなし用のお茶菓子を仕事帰りに買って帰ったり、会話もしていたはずだ。


その後私は職を変え、やり甲斐はあるが残業の多い仕事についた。

周りから見れば華やかに見える業界で、自分なりに弾かれないように気をつけて、服装や行動、見えかたも気を使うようになって、評価されることへの自信もついてきた。


そして、5年、7年。母との会話は確実に減っていった。



翌朝、仕事に出ようと、2階から降りていくと、1階の居間に人の気配がある。いつも昼近くまで寝ている母が珍しく起きていると思い、何の気なしに部屋を覗くと、母は扉を開いた茶箪笥の前に立っていた。

こちらに半分背を向けて立っている母に、こんな朝から何を取り出しているのだろうと訝しく思った。

それと同時に、鮮やかなライムグリーンの布帛の端が目に入った。


私は、固まってしまった。


私の目の前で母は、きちんと畳まれたストールを、愛おしそうにそっと撫で、そして引き出しにしまったのだ。


通帳や印鑑、父の形見の腕時計。そこにしまわれてるであろうものは、なんとなく知っていた。


私は、見てはいけないものを見たときのように、そっとその場を離れ、音がしないように身支度を済ませ、玄関を抜け出した。



足早に駅へ向かいながら、不意に涙が滲んだ。

理由はわからない。

母の背中が自分が思っているよりも、小さく縮んで見えたからなのか。

普段の可愛げがなくがさつで無神経な母、が見せた不釣り合いと思える仕草を見たからか。


それは、違うのだろう。


母の背中に、自分を恥じたからだ。

目に見えるものに囚われて、大事なものを忘れていく自分を、母は黙って受け止めたのだと思ったから。

父から受けた理不尽を、母が黙って受け止めたように。


そっと涙を拭って考えた。週末には、美味しいケーキ買って帰ろう。たまには、私から話しかけるのもいい。